飛び蹴りジャンプキック

飛び蹴りジャンプキック。語感がたまらない。
意味を考えれば同じ事言ってるだけ、というかそもそも意味なんてない言葉ともいえない言葉。

いやしかし、なんだか良くわからないが僕はこの言葉に惹かれている。こういうことはよく…いや、たまにある。
ふと思いついた言葉が頭から離れなくなる。

まぁ御周知の通り飽きっぽい性分なので3日…長くて一週間で俺ワードブームは誰にも知られることなく去っていく(まぁ使いまくってる事もしばしば)訳だが、いやでもその短い期間だけは僕の思考はその言葉を中心に巡っている。と、思う。

まさにボーイミーツワード。いやボーイってアンタってのは置いとけ。

まぁそんなこんなでここ数日僕は心中で『飛び蹴りジャンプキック』と何回も繰り返してひとりほくそ笑んでいたのだ。

この言葉はなんなのでしょうか。語感が良い(と僕が思っている)だけなのだろうか。いや違う。と。わからんけど。違う。筈。

僕は日本人であって母国語は日本語でニホンゴでにほんごだ。決して英語でもEnglishでもanglishでもない。
Jump kickっていうのが正確な英語かは知らんがとりあえず同じものだ。でも僕が想像する『飛び蹴り』『ジャンプキック』とアメリカ人の想像するそれらは多分微妙に違っている筈だ。


飛び蹴りジャンプキック。同じものの繰り返し、若しくは並列。だが=ではない。≒に近い。どちらも微妙に違っている。



同じことの繰り返し。だけど完璧に同じじゃない。

或いは。

同じものが地平線の向こうまで並んでいる。かもしれない。少林寺の修行僧達が同じ格好して飛び蹴りの稽古をしている場面を想像した。おもしろいじゃないか。でもそこにいる修行僧達は皆頭を丸めて同じ格好をしているけど、違う顔をしているして体つきも、そもそも少林寺で修行をする事になったのはそれぞれの理由があっての事だろう。

ところで何で俺は修行僧についてアツく語っているのか。そうじゃないだろう。別に少林寺に興味はない。

そうだ。『飛び蹴り』も『ジャンプキック』も『Jumpkick』も『少林寺の修行僧(達)』も皆それぞれが違っていて。

大極的に見れば俺もその周りに居る人たちもタモリみうらじゅん昭和天皇も東条某もジュリアン・カサブランカスも孔子プラトンカエサルもそんなに変わらない筈だ。多分『飛び蹴り』と『ジャンプキック』の差ぐらいしか。

飛び蹴りジャンプキックというのはそういう事だったのだな。
ひとり納得する俺。この言葉が俺の中に定着するかこの文章を書き終えた時にブームが収束して消えていくだけなのかはまだわからん。

が。ここまで書かせるだけのものではあったようだ。少なくとも俺の中では。

人生は飛び蹴りジャンプキック。大した違いはないさ。
と、僕は思っている。のだ。