クロノトリガーの自由

 このような発言*11にも明らかにみられるように、FFシリーズは明らかに「試合」としてのゲームのロジックだけではなく、「表現」としてのゲームのロジックによっても作られている作品です*12。二度と生き返ることのないプレイヤーキャラクターの「死」が実際に表現されたり*13。そして、シナリオの中で敵が生き返ったり死んだりを繰り返すわけですが、ここで着目したいのは登場人物や敵がいかなるときに死に、いかなるときに生き返るか、ということです。ラスボスと戦っても、本当の最終決戦になるまでラスボスを倒すことはできないし、味方が死ぬ場合もプレイヤーの行った戦闘の結果として味方の死が決定されるということがないというのは先ほど書いたとおりです。

http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20050717


クロノトリガーではラスボスを『いつ』倒すか、そして主人公たるクロノの『死』を未然に防ぐか、死んだままにしておくか、死を乗り越えてラスボスを倒すかなど、『試合』と『表現』の融合が見られた気がします。


クロノの『死』と『再生』自体はそれが起こる前にラスボスを倒し(殺し)て物語りを終わらす事でしか回避する事はできませんが、それらをある程度自由に選択できるところは純粋なスクウェア作品であるFFなんかとはやっぱり違うところなんでしょうね。


ラスボスを倒す『タイミング』を自由に選べるという点も、『時間』をテーマにした作品ならではかもしれませんな。


スクエニなった今そういう作品がまた生まれてきても良いんじゃないかな、とは思います。


なんでこんな丁寧な口調で書いてんでしょーか。引用元につられたか。